これはフィクション

書く、を気軽にする

03/01/2015 はてブロの謎とホルモン剤経過

ブログの日毎のアクセス解析を見ていたら一日で500ビューという日があった。前回の投稿日である。今まで月100アクセス超えることを嬉しそうに?報告してきていた解析機能だったが、このことについて何も触れないのはアンドロイドアプリを開く前に月が変わったからだろうか。pcからアクセスするのも面倒なのでリンク元を見に行ったりすることもない。
そもそも読まれているかどうかに興味があるかというと、あまりないような。(これは後述の匿名性の話で解説がなされているはず)

ブログを書くこと自体はこのブログ以外にも複数あった。今まではいわゆるコンテンツベース、個人の感想や体験があまり内在しないものが多かった。オープンソースソフトウェアのマニュアルの翻訳を書き置いたり、目的を達成するために参照したリンクを纏める作業が多かったと思う。

「感情や肉体を持った、実生活を送っている人間」として文章を書く事は意図的に避けてきた。理由として、自分が極論に偏りがちであることや、周囲の「アルファなんとか」の人達に実在の人間として最初に会っていると、彼らが意見を言う時、インターネットから受けているフィードバックがコンテンツ投稿の労力に見合う幸福をもたらすことがあまりないという認識を受けているというのがある。

はてな」のサービスを使うのも、意図的に避けてきた。はてなは基本的に「名前」を大切にするサービスだと認識している。ただ、はてなは、アンドロイドアプリが優秀なのだ(ほんとうにそれだけ、bloggeriosアプリを一時期使っていたが投稿がとにかく困難だった)

自分はインターネットの中では、長らく無名の「名無しさん」或いは「としあき」、会員制サービスでは登録時に割り当てられる文字列として過ごしてきた。同じく無名の人間が集まる掲示版で、議題や画像、winampラジオ配信、ブラウザゲームなどの「外側の」コンテンツについて話していた。
これは7年前だったか、ツイッターに登録した時も変わらなかった。

mixiやfbはどうなのかというと、あれは半クローズコミュニティで現実の人間との紐付けがあるので危うさが多く、できるだけ当たり障りのないことを書くように務めた。ただ、他人が一緒に写り込んでいる写真をタグ付けするのは本当につらい(不意打ちの写真も多い)

ツイッターも7年目になると、現実の知り合いより長く知っているアカウント(人間であると仮定したい)ができてくる。会社の上司より火炎瓶に関するニュースリンクを貼ると喜ぶ人との付き合いが長いのだ。良い現実の知人にアカウントを教えると、現実の友達とインターネットの長い知り合いが画面上に入り乱れるカオスが発生する。
更に良くないのは、コンピューターサイエンス的な何かを研究している学部(IPv6とは何か、などを教えているようだが)と併設の学部に通っていたので、友人に紹介され初めて会った人が既にインターネットの名前で知り合いであった、などの嘘のような話があった。
未だに、「今谷奈々」以外の現実の名前を知らない知人はいる。名前の後ろに「氏」をつけて濁らせると、未だに名無し、となることは悲しいがギャグとして成り立っていなかったようだ。

今でもツイッターを始めたばかりのころ、殆ど人のいないTLに、テニスの壁打ちをした後球を追いかけすらしないような、山彦に呼びかけるような書込をしていたのを思い出す。
二、三年ほど前か、「奈々さん」と呼びかけてくる人がいて虫唾が走ったのを覚えている。
ツイッターも人間が多くなってしまい、冗談や(かつてのにちゃんねらーのような不謹慎な発言を許せない人々)(さあどこに句読点を打つのか)が増えてきたので、表示名を人名にしていると、相手を人間と認知し説教を喰らったりする。
あるときそれがだるくなり、表示名を「くじら」にしたら解決されたので、表示名を無機物か一般名詞、よくわからない文字列にするのは他人(別物、果てにはどこかおかしい人)と認知してもらうには便利であるということがわかった。実際に自分は文化的に日本語圏の価値観に相容れない部分も多く、かといって絶対的な資本主義を生きることなどできず、自分は弱いと思っているので他人に冷たい部分もあり、保身に走る。このブログでは限られた場でしか「私」と書かないのも、多くの人間はこの文字をわたくし、ではなくわたし、と読んでしまい女性と認知されることを知り怖がるからである。女性というのは、「俺ら」ではないのだ。

最近急になぜ継続して日記を書こうと思ったかというと、PMS?的?なものに中用量ピルを服用した人の継続的な感想が見つからなかったというのもある。
しかし、こんなに長く書いてしまうと後から読む人間も大変なので反省が必要だ。


感想を継続して書きたいが、個としての連続性や実在との紐付けを認知されたくない、この姿勢はなんだろうか。名前が無ければ自伝は書けないのだろうか。
小説を最近書かなくなったのは、小説を書いて、数人にでも楽しんでもらうまではよかったが、その先にあるものが見えなかった、というのがある。読者数の話ではなく、人生における自分の中での小説の位置づけの話だ。

雑誌編集の方に、今の時代ではウケない、と言われたような小説を、形にしたかった時はたしかにあった。が、それはざくざくとこのブログのように、推敲もせずに文字を綴る事で達成される自己の満足以外のものがあるかというと、私にはなかった。



という具合に、
「このホルモン剤は、二週間分飲み終わったらすぐ月経がくるから。すぐ来るから。すぐ来たら、終わってから3日くらいして、再診で経過を教えて」
とおじいさんの先生が言っていた様に、あと三粒ほど飲んだら月経という時期なので文が乱れると言い訳をする。
ついでに、腰の両側の冷え?から来るような毎回の腰痛は少し軽くなったと記録しておく。偏頭痛は劇的によくなりました。食事も流体ゲル以外のものがとれます。一月でこれだが、肌が脂っぽくて気になる状況は少しよくなった。劇的である。


会社と家の往復をしていた頃、交差点に立っていると、東急東横線が走ってきて、私を敷くのだ。そうやって、会社の前の交差点でよく「死んだ」、よくわからないが、そう見えたのだ。信号が変わり、何もなかったかのように群衆と共に交差点を渡り、駅から電車に乗る。
見えないものが見えることにあまり驚きを得ない、というのは一瞬落ち着いた、天気のいい休日の昼間などに恐怖へと変わる。
その時期に初めて処方されたリスパダールは、思考を停止させる気がするので、何も見えない時でも思考の混乱があると飲みたくなるが、これは精神依存か、と思う。
酒を一人で飲見たくなり飲むことは、もう月に1、2度しかないが(アルコールは止められてはいない)、リスパダールのもたらすダウナー的な心地よさは一種の快楽であると思う。

或いは、薬物療法を受ける必要のない人間の、リラックスしている時というのはこのような感じなのだろうか。両方を同時期に体験することはできないので、これを読んでいる人間にもわからないことかと思う。
ただ、幻覚がある、と他人から、また数人から言われている人は確実に処方を守って飲んで欲しいものではある。苦しんでもらいたくないし、現実は見た目より楽かもしれないので。少なくとも自分の場合はそうであったかと思う。