これはフィクション

書く、を気軽にする

2/28/2015午後  天井を見る行為

子供の頃はよく天井を眺めていた。学校の天井がタイル張りで、模様に点が打ってあったので数えたり、中学に入ってからは蛍光灯が埋め込まれていたので目を痛めたりしていた。何故かは今でもよくわからない。勉強が特別嫌いというわけではなかったと思う。

採用バランスがおかしい帰国子女枠の入試で、不相応な私立中高一貫校に入ったので、授業というか、周囲の勉強に対する熱意についていけなかったのでつらかった記憶がある。以後も英語ができたばかりにそれなり以上の大学に入学して苦しんでしまったが、就職採用には通用しないのでよくわからない企業に就職した。

ただ、一つよかったのは、それらの学校では周囲の人たちが優しかったりしたことだ。学歴もある程度の金もあるので、将来がそれなりに約束されており、多分そうでない人より不安も少なくて、それらで人を妬んだり、大卒にコンプレックスがあったりしないようであった。大卒同士が集まる職場は穏便か、裁判沙汰になるかの二択だ。

日雇いのアルバイトに行くと自分は大卒だという話は絶対にしないようにしている。雇う側やバイトリーダーがそうでない事が多かったり、バイトの同期でもそれを理由に妬まれたりすると全体のミスをその人間のせいにされたりする。
そんな現場を何度も見てきた。大卒が日雇いで使えないみたいな話の一端はそこにあるのだと少し思う。そもそも使える人間は日雇いなどしないし、使える人間は要領を得ていて余計なこと(学歴)を言わないので、大卒と認知されなかったりしている。




私は人間なので、せいぜい長くても80年くらいしかいきることができない。その中で精力的に何かができるのは、両親を見ているとだいたい50代くらいまでで、更に言うと高等教育(高校のことではない)を異なる分野で受けられる限界は多くても2回までではないかという認識がある。金も時間も、脳の容量も必要で、身につけた上で何かアウトプットしたいと考えると、自分は2回が限界と感じる。
そう思うと、寿命が数百年単位であったらよかったのに、と思うことがある。
希死念慮がときおりある人間が何を言うのかという感じだが、時間があるうちはより多くを知ることができる。時は金なりというのは本当で、将来の100ドルと現在の100ドルはどちらが価値が大きいかという問題は有名だ。

「打たれるうちはまだ強くなれる」とふと曲の歌詞に流れてきたが、自分の限界を知ることで、それを補完するために他人を利用できるようになり、自分の成果(できること、ではない、自分でできればいいのだが残念ながらできないので)を増やすことができるようになるのではないかと思う。

個人としては、「できない側」の人間で、できる、他人が妬ましいので、必死になってこのような小手先のことを考える。

今日は気力も仕事も金もないので、天井を見つめて終わることにした。