これはフィクション

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08/10/2015 生死感 ぎっくり腰

ぎっくり腰になりました。
3日ほど寝ていて腰が痛くて暇だし、階段を上がれないので居間にいるしかない。煙草も吸えません。
楽な側に横向きになり、クッションなどを膝の間に合わせるのが定説らしいですが楽な側などありません。テレビの前でクソみたいな大河ドラマや煩いだけで興味の無いスポーツの試合を垂れ流される運命です。

以前にもギックリはやりました。ものすごく疲れていて、その時は顔を洗おうとしたかなにかで。今よりひどかったです。
とにかく動けないので百時間単位で暇で、前回はpspのモンハンをずっとやっていました。
ただ、情報をうまく整理できなかったり、何をしているのか途中で忘れたりするので装備が全然揃わない。
ぎっくり腰は繰り返すし、腰痛で椅子に座れないのはオフィスワーカーの解雇理由にもなるんですね。。
明日明後日は9時間座っていることを強いられるのですが大丈夫だろうか。



話は全く変わりますが、世の中には「生きるために生きている人たちがいる」、と思うことがあります。ただ生命活動を続けるためや、仕事をしているという態勢を保つため、日々の時間の大半を費やす。私がそうでした。

会社員時代は「仕事に行くために飯を食い夜寝て、飯を食い夜寝るために仕事に行く」
という生活をしていた時期がありました。
好きなことをしている人はともかく、生活をする金のために賃金労働をしている人が生きる意味はどこにあるのか。労働のために生きて生きるために労働し、それが死ぬまで続く。

好きではない労働ってつらいですよね。
何故つらい思いをしてまで生きなければならないのか。永遠のテーマですねこれは。
本当は生きなくても良いのだけれど。
生きなければ労働をしなくてよい。

稼いで、欲しいものがないのか、と言われてもそんな給与は誰が出すのだろうか。
欲しいものは遠くて、何年経っても手が届かない気がするんですよ。
何処かへ行きたいというのはあるけれど、旅行と雇用は相性最悪だからな。 

物でなく幸福感のある日常が欲しい、それはどこにあるのだろうか。
少なくとも賃金労働の先にそれは見えてはこない。
解を探すためだけに、私は生きることを続けていくのだと思う。